2014/3/2訪問 もちゃ はっしー たむさん 函館からの羽幌炭鉱を終えたその日の帰り、薄暗くなってからの探索、になります。達布炭鉱。 小平ダムへ向かう途中の道道沿いに佇んでいる巨大なホッパーのみがここに炭鉱があったことを示してくれてます。 薄暗く、体力もピークとなっている中なので今回は探索ではなく下見の感覚で見ていただけたらと思います。 「達布(天塩)炭鉱」は、本格的に開始されたのは天塩鉄道が開通された1941年からで、戦時中だった為、 資材調達に困難であった中、石炭輸送のみで先行開業、不足した車両は夕張鉄道から借り入れていたようです(Wiki参照) 元々は歴史が深く、明治中期に北炭に譲渡されていた鉱区でしたが、新鉱開発と、人造石油留萌工場の原料を供給するため、 1938年から採掘鉱区へとなってからおよそ2年で栄坑と寿坑の建設に着手することになりました。 しかし1951年に北炭として廃坑となりましたが、その後は天塩炭鉱鉄道として石炭の採掘を開始されています。 1958年には住吉炭鉱の採掘権を入手し、1963年には年間10万t程度を記録しましたが、1967年4月に閉山となりました。 なお住吉炭鉱も同年10月30日に閉山となっております。 冬の後半に差し掛かっていましたが、積雪は侮れずに猛威を振るっていました。 目の前の雪山を越えて道路脇のホッパーの内部に入って見ました。 築別炭鉱ほどではありませんが、比較的大きいほうだと思います。 達布炭鉱の規模は遺構がほとんど解体されてしまったためにはっきりはしませんが、 ホッパーが3蓮であることからそこそこ大きい規模だったのではないかと思います。 足場には鉄混じりの赤みがかった水が湧き出ておりました。 ホッパー内からの撮影です、ベルトコンベアーの跡でしょうか。 それでは時間と寒さに襲われているので短いですが撤退することにします。 今回は数十分余りの下調べとなりましたが、遺構が少ないため時間としては充分であったと思います。 積雪が非常に厳しい為、ホッパー内のみの探索となってしまいましたが、次回は周辺をもう少し調べて見ることしましょう。 「達布炭鉱」 昔から林業や農業、漁業でしか栄えてなく、人口も少ない町でしたが。 炭鉱によって鉄道も敷かれ、それと同時に人口も増加し、炭鉱と共に育った大きな町となります。 しかし閉山とともに人口が一気に減少し、大きく歪められてしまいます。 炭鉱の栄えている間には30余りの会社が開発されているほど勃興していた町が、今となっては 炭鉱のあった周辺は水田と、当時の半数以下の住民となっております。 国策に翻弄されてしまった町の一つですが、まだ負けんとする町の意思と、水田を見守る大きな遺構は、 とても輝いているように見えました。 レポートに戻る (追加情報) 炭鉱遺構の北にある山の反対側に昭和48年前後の航空写真から集落跡を発見。 |